2008/05/02

わが街わが友第34回 上馬/宮前平

今から約30年前、
三軒茶屋に再集合した鎌田家。
僕、小2。
弟、5歳(幼稚園には通わせてもらってない)。

しかし、
親父の稼ぎだけでは食っていけない。
その時、声を掛けてくれたのが
修おじさんだった。

当時1人で切り盛りしてたおじさんは
唯一の社員として
うちの母を雇ってくれたのだ。




母は教習所へ
写植を習いに行き、
写植オペレーターとして
おじさんと一緒に働いた。

家事を片つけてからでいい、と
10時出社でよかった。

父母会や行事がある時は
早引きしていいぞ、と
言ってくれた。

仕事が早く終わった時は
僕ら鍵っ子の兄弟が待っているから
早引きしていいぞ、と
言ってくれた。
「あむいちゃん、ありがと。スーパー買い物してから帰るわ」

母への給料も、
極力ハズンでくれた。



放課後僕らが
たまたま遊び相手がいない時は
2人のいる事務所に遊びに行った。

そこには
修おじさんも大好きな
ビートルズのでっかいポスターが
貼ってあった。

「おじさん!『イマジン』は、ビートルズの曲だよね?」
「しろ君、違うよ、あれはジョンの曲なんだ」

おじさんは忙しいのに
集中力の要る仕事なのに
いつも話し相手になってくれた。
母はいつも、
クリープのたっぷり入った
コーヒーを入れてくれた。

「はじめ(母の名前)、コーシーのブラックは体に悪いぞ」
「あむいちゃん、ごめんね、いつかやめる」

母の家族は
長野生まれなのに
「ひ」

「し」
が言えない事は前に書いたけど
それに加えて、
修おじさんのことは
皆が「あむいちゃん」と呼んだ。



それでも暴れたい盛りの僕ら兄弟は
お客さん用のソファーで
飛んだり跳ねたりした。

すると
我慢強いおじさんも
最後には怒って
「外で遊んでこい!」
と怒鳴った。




やがて僕は高校生になり
既にデザインに
強い興味を持っていた。

前にも書いた
学校新聞や
文化祭のパンフレット。
シゲタデザイン事務所に、
全部依頼したんだぜ。

僕が素人なりに
目一杯張り切ってラフを書いて
母が写植で文字を起こす。
それをおじさんが
僕の要望通りに
切って貼って、切って貼って
パソコンの無い時代だ、
全てそうやって版下を作る。

それは僕にとって
もう2度と戻らない、
夢のようなひと時だった。

おじさんは、
時に僕のむちゃくちゃなデザインに
ダメ出ししながらも
「今の若いしとの感覚は参考になるなあ、しろ君!」
と言ってくれた時の
嬉しかった事と言ったら。



その頃おじさんは
宮前平のマンションを
購入していた。
その部屋1つ1つが広いし、
2人の子供のための部屋だってあるし、
妻であるおばさんは専業主婦だった。

社員1人の小さな事務所だけど
自営業って
僕んちの共稼ぎより儲かるんだなあ
なんて、
甘い幻想を抱いたりしてね。
そん時はまだ
おじさんが若い頃の苦労話も聞いてなかったし
そしてこの後、
おじさんがどうなるかなんて
考えたこともなかったかんねえ・・・。



続く

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