やってきたでよ幡ヶ谷ロケ!
今までで最多、キャストが約20人。
お年寄りから、小学生や幼稚園児もいて。
その彼らを自由に泳がせて
ザザザッと撮影をこなす
西山監督に、脱帽。
そん中に、本物の坊主を呼んで
5分だけの拘束で、
お経を読ませたんだけど
キャツの要求したギャラが
なんと3万円。
御布施代として渡すんだけど
キャツは、皆の目の前で
平然と受け取るのにはビツクリ。
打ち合わせの時も
キャツはタメ口だし
僕に説教までしやがったねえ。
「君は若いから何にも知らないだろうけど」
って。
見た目で言っちゃ、イヤイヤ!
僕、今年で不惑よ。
坊主っちゅーのは
謙虚な人物だと思ったけど
いやあ、
一変で、あの手の人物、
キライになりやした。
ちなみに、
普通に葬儀とかをやったら
御布施代は
20万円だそーです。
芸能人かっつーの。
ビンボー人から金をかすめて
エライもんだよ糞坊主。
でも、
そんなの、
気にしちゃあいません。
ロケが終わると
昼間っから
監督と母と3人で
ビールと餃子でがぶ飲みで
全くもって楽しい打ち上げです!
さあ、
今後、天才・西山監督が
どんな撮影を計画するか
楽しみでたまりませんえん。
絶対完成するかんね、
皆、首とか
いろんな物なが~くして
待っててね。
2008/05/29
2008/05/19
舞天(ブーテン)は歩くよ
と、撮影の翌日は
舞天(ブーテン)の練習。
相方の山さんと
こうして会うのは
久しぶりになってしまって。
まずは戸越銀座の
美味しいラーメン屋
「えにし」
で昼飯。
舌鼓。
戸越銀座の商店街は
距離がすんごく長くて
お店が沢山。
店内はどこも暇そうなんだが
なんでかえらく活気がある商店街。
散歩してて、楽し。
羽田の山さん家に着き
1人で観るのは恥ずかしかった
2月のライヴのヴィデオを
2人で観る。
その後、
徒歩0分、
多摩川の川原に行き、
練習。
羽田の川原は
昭和の空気が
そっくり残っていて、
寂れた釣り船が
停泊したりしてる。
新曲2曲のうち、
1つはカヴァーなんだが
歌いながら、
その歌への想い入れから、
感極まって、泣く。
川原で、泣く。
夕方になり
寒くなってきたので
家に戻り、
大好きな相撲を見ながら
2人でギター弾く。
夕ご飯を食べようと
木造の古い家がたっぷり並ぶ路地を
2人でほろほろと歩くと
山さんのお父さんが
一緒にご飯を食べようと
電話が来て。
3人で肉を喰らいながら
あれやこれやと笑い、話し、飲む。
そんな風にして
舞天(ブーテン)は
再び歩き始めました・・・。
舞天(ブーテン)の練習。
相方の山さんと
こうして会うのは
久しぶりになってしまって。
まずは戸越銀座の
美味しいラーメン屋
「えにし」
で昼飯。
舌鼓。
戸越銀座の商店街は
距離がすんごく長くて
お店が沢山。
店内はどこも暇そうなんだが
なんでかえらく活気がある商店街。
散歩してて、楽し。
羽田の山さん家に着き
1人で観るのは恥ずかしかった
2月のライヴのヴィデオを
2人で観る。
その後、
徒歩0分、
多摩川の川原に行き、
練習。
羽田の川原は
昭和の空気が
そっくり残っていて、
寂れた釣り船が
停泊したりしてる。
新曲2曲のうち、
1つはカヴァーなんだが
歌いながら、
その歌への想い入れから、
感極まって、泣く。
川原で、泣く。
夕方になり
寒くなってきたので
家に戻り、
大好きな相撲を見ながら
2人でギター弾く。
夕ご飯を食べようと
木造の古い家がたっぷり並ぶ路地を
2人でほろほろと歩くと
山さんのお父さんが
一緒にご飯を食べようと
電話が来て。
3人で肉を喰らいながら
あれやこれやと笑い、話し、飲む。
そんな風にして
舞天(ブーテン)は
再び歩き始めました・・・。
茨城ロケ撮影、完了。
本来5/3に行われるはずだった
映画「新モナーク三軒茶屋410」
の茨城ロケが、
延期の末、
先日5/17に敢行されたぜ。
天才、西山亮監督と
俺と母が同行し、
上野駅から
JR特急フレッシュひたちに乗って
羽鳥駅へ。
土浦より向こうは、
遠いのおおお。
母と特急に乗ってどこかへ行くなんて
記憶がないくらい久しぶり。
だもんで、
ちょび、旅行気分。
懐かしいのお。
3人で、
車内でわいわいわい言いながら
食べる昼飯の楽しいこと。
電車やホームにいる中学生が
純朴そうで可愛いぜ。
ほっぺも、ちょび、赤い。
撮影してる俺たちを
好奇心たっぷりに見てる。
東京じゃあ
見られない光景だわあ。
で、本作初の
遠方ロケだったので
兎に角かなりのVを回した。
録画済みのテープが
何巻になったことだろうか!
実はこのロケ、
ラストシーン近くに使われるものなのよ。
なので、
「おおお、ラストはこんな映像になるんか」
と、ちょび、感慨深かっただよ。
あとは、
天才、西山監督に、
好きなように料理してもらうだ。
映画における、
精神としての、パンク。
映画という名の、
ソウル・ファンクミュージック。
笑わせます!
怒らせます!
ああいや、怒らせちゃぁいけねぇいけねぇ!
皆たち!
首を長くして待て!
完成は、
ロンドンオリンピック辺りか??
映画「新モナーク三軒茶屋410」
の茨城ロケが、
延期の末、
先日5/17に敢行されたぜ。
天才、西山亮監督と
俺と母が同行し、
上野駅から
JR特急フレッシュひたちに乗って
羽鳥駅へ。
土浦より向こうは、
遠いのおおお。
母と特急に乗ってどこかへ行くなんて
記憶がないくらい久しぶり。
だもんで、
ちょび、旅行気分。
懐かしいのお。
3人で、
車内でわいわいわい言いながら
食べる昼飯の楽しいこと。
電車やホームにいる中学生が
純朴そうで可愛いぜ。
ほっぺも、ちょび、赤い。
撮影してる俺たちを
好奇心たっぷりに見てる。
東京じゃあ
見られない光景だわあ。
で、本作初の
遠方ロケだったので
兎に角かなりのVを回した。
録画済みのテープが
何巻になったことだろうか!
実はこのロケ、
ラストシーン近くに使われるものなのよ。
なので、
「おおお、ラストはこんな映像になるんか」
と、ちょび、感慨深かっただよ。
あとは、
天才、西山監督に、
好きなように料理してもらうだ。
映画における、
精神としての、パンク。
映画という名の、
ソウル・ファンクミュージック。
笑わせます!
怒らせます!
ああいや、怒らせちゃぁいけねぇいけねぇ!
皆たち!
首を長くして待て!
完成は、
ロンドンオリンピック辺りか??
2008/05/16
2008/05/15
2008/05/08
2008/05/07
2008/05/02
わが街わが友第34回 上馬/宮前平
今から約30年前、
三軒茶屋に再集合した鎌田家。
僕、小2。
弟、5歳(幼稚園には通わせてもらってない)。
しかし、
親父の稼ぎだけでは食っていけない。
その時、声を掛けてくれたのが
修おじさんだった。
当時1人で切り盛りしてたおじさんは
唯一の社員として
うちの母を雇ってくれたのだ。
母は教習所へ
写植を習いに行き、
写植オペレーターとして
おじさんと一緒に働いた。
家事を片つけてからでいい、と
10時出社でよかった。
父母会や行事がある時は
早引きしていいぞ、と
言ってくれた。
仕事が早く終わった時は
僕ら鍵っ子の兄弟が待っているから
早引きしていいぞ、と
言ってくれた。
「あむいちゃん、ありがと。スーパー買い物してから帰るわ」
母への給料も、
極力ハズンでくれた。
放課後僕らが
たまたま遊び相手がいない時は
2人のいる事務所に遊びに行った。
そこには
修おじさんも大好きな
ビートルズのでっかいポスターが
貼ってあった。
「おじさん!『イマジン』は、ビートルズの曲だよね?」
「しろ君、違うよ、あれはジョンの曲なんだ」
おじさんは忙しいのに
集中力の要る仕事なのに
いつも話し相手になってくれた。
母はいつも、
クリープのたっぷり入った
コーヒーを入れてくれた。
「はじめ(母の名前)、コーシーのブラックは体に悪いぞ」
「あむいちゃん、ごめんね、いつかやめる」
母の家族は
長野生まれなのに
「ひ」
と
「し」
が言えない事は前に書いたけど
それに加えて、
修おじさんのことは
皆が「あむいちゃん」と呼んだ。
それでも暴れたい盛りの僕ら兄弟は
お客さん用のソファーで
飛んだり跳ねたりした。
すると
我慢強いおじさんも
最後には怒って
「外で遊んでこい!」
と怒鳴った。
やがて僕は高校生になり
既にデザインに
強い興味を持っていた。
前にも書いた
学校新聞や
文化祭のパンフレット。
シゲタデザイン事務所に、
全部依頼したんだぜ。
僕が素人なりに
目一杯張り切ってラフを書いて
母が写植で文字を起こす。
それをおじさんが
僕の要望通りに
切って貼って、切って貼って
パソコンの無い時代だ、
全てそうやって版下を作る。
それは僕にとって
もう2度と戻らない、
夢のようなひと時だった。
おじさんは、
時に僕のむちゃくちゃなデザインに
ダメ出ししながらも
「今の若いしとの感覚は参考になるなあ、しろ君!」
と言ってくれた時の
嬉しかった事と言ったら。
その頃おじさんは
宮前平のマンションを
購入していた。
その部屋1つ1つが広いし、
2人の子供のための部屋だってあるし、
妻であるおばさんは専業主婦だった。
社員1人の小さな事務所だけど
自営業って
僕んちの共稼ぎより儲かるんだなあ
なんて、
甘い幻想を抱いたりしてね。
そん時はまだ
おじさんが若い頃の苦労話も聞いてなかったし
そしてこの後、
おじさんがどうなるかなんて
考えたこともなかったかんねえ・・・。
続く
三軒茶屋に再集合した鎌田家。
僕、小2。
弟、5歳(幼稚園には通わせてもらってない)。
しかし、
親父の稼ぎだけでは食っていけない。
その時、声を掛けてくれたのが
修おじさんだった。
当時1人で切り盛りしてたおじさんは
唯一の社員として
うちの母を雇ってくれたのだ。
母は教習所へ
写植を習いに行き、
写植オペレーターとして
おじさんと一緒に働いた。
家事を片つけてからでいい、と
10時出社でよかった。
父母会や行事がある時は
早引きしていいぞ、と
言ってくれた。
仕事が早く終わった時は
僕ら鍵っ子の兄弟が待っているから
早引きしていいぞ、と
言ってくれた。
「あむいちゃん、ありがと。スーパー買い物してから帰るわ」
母への給料も、
極力ハズンでくれた。
放課後僕らが
たまたま遊び相手がいない時は
2人のいる事務所に遊びに行った。
そこには
修おじさんも大好きな
ビートルズのでっかいポスターが
貼ってあった。
「おじさん!『イマジン』は、ビートルズの曲だよね?」
「しろ君、違うよ、あれはジョンの曲なんだ」
おじさんは忙しいのに
集中力の要る仕事なのに
いつも話し相手になってくれた。
母はいつも、
クリープのたっぷり入った
コーヒーを入れてくれた。
「はじめ(母の名前)、コーシーのブラックは体に悪いぞ」
「あむいちゃん、ごめんね、いつかやめる」
母の家族は
長野生まれなのに
「ひ」
と
「し」
が言えない事は前に書いたけど
それに加えて、
修おじさんのことは
皆が「あむいちゃん」と呼んだ。
それでも暴れたい盛りの僕ら兄弟は
お客さん用のソファーで
飛んだり跳ねたりした。
すると
我慢強いおじさんも
最後には怒って
「外で遊んでこい!」
と怒鳴った。
やがて僕は高校生になり
既にデザインに
強い興味を持っていた。
前にも書いた
学校新聞や
文化祭のパンフレット。
シゲタデザイン事務所に、
全部依頼したんだぜ。
僕が素人なりに
目一杯張り切ってラフを書いて
母が写植で文字を起こす。
それをおじさんが
僕の要望通りに
切って貼って、切って貼って
パソコンの無い時代だ、
全てそうやって版下を作る。
それは僕にとって
もう2度と戻らない、
夢のようなひと時だった。
おじさんは、
時に僕のむちゃくちゃなデザインに
ダメ出ししながらも
「今の若いしとの感覚は参考になるなあ、しろ君!」
と言ってくれた時の
嬉しかった事と言ったら。
その頃おじさんは
宮前平のマンションを
購入していた。
その部屋1つ1つが広いし、
2人の子供のための部屋だってあるし、
妻であるおばさんは専業主婦だった。
社員1人の小さな事務所だけど
自営業って
僕んちの共稼ぎより儲かるんだなあ
なんて、
甘い幻想を抱いたりしてね。
そん時はまだ
おじさんが若い頃の苦労話も聞いてなかったし
そしてこの後、
おじさんがどうなるかなんて
考えたこともなかったかんねえ・・・。
続く
2008/05/01
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