僕が高校生の時、
うちの高校を含めて
都立高校数校の敷地に
国道が建設される事が決まった。
学校側が反対する余地は全くなくて
国の方からトップダウンで
勝手に決められた事だった。
ありゃりゃんりゃ、
校庭は狭くなるし
空気は汚くなるし
いくら都の土地だからっつったって
いくらそのお陰で儲かるエライ人がいるからって
そんな好き勝手な事されちゃあ
そらあ困った事だわい、と
僕らは署名やらなんやかやして
反対運動をしたんだけど、
どーにもならなくて。
そんなある日、
僕はあるトークショウかなんかを
聴きに行っていて
そん時ひらめいたのだ。
「あの壇上の人にお願いしたら、何とかなるかもしれないべぇ」
僕はトークショウの後、
出待ちなんぞをして
その人を待っていた。
あ、出てきた。
今より20kg体重の少ない
今から22年前の僕は
細くて青っちろい顔して
(さすがに青っぱなは垂らしてないけど)
その人に心から懇願した。
「あなたの雑誌で、ぜひ、このひどい状況を、記事にしていただきたいのですが」
その人は、
話をしっかり聞いてくれた後、
微笑みながら
「ああ、君はあそこの高校生かあ。
あそこの高校には色んな思い出があってねえ、
ああ、懐かしいなあ。」
と言いながら去っていった。
その後、その雑誌に
その記事が載ることはなかったが
なぜか僕はそんなに
悔しい気持ちは起こらなかった。
その雑誌は、「朝日ジャーナル」。
その日会ったのは、筑紫哲也さんだった。
僕は筑紫さんが編集長になってからの「朝ジャ」の
チョー愛読者だった。
「ビックリハウス」
を読んでほくそ笑み、
「STUDIO VOICE」
を読んでアートの近況をチェックし、
「広告批評」
を読んでコーフンし、
「朝ジャ」
を読んでは正義心ってやつを
奮い立たしていたもんだった。
に加えて、「朝ジャ」の連載、
「若者たちの神々」
は、僕のミーハー心を
躍らせるに充分だった。
今週は浅田彰だ来週は糸井重里だ再来週は坂本龍一だ、
ニューアカだポストモダンだ脱構築だ、
ドエラくワクワクして読んだもんだった。
当時のこーした「朝ジャ」の
若者擦り寄り路線は
右からも左からも上からも下からも
揶揄されたもんだけど、
僕は今でも筑紫さんの
硬軟なんでもありのエディットセンスは
決して間違っちゃいない
と思っている。
でも、「朝ジャ」が廃刊して
筑紫さんがニュース番組をやる
って聞いた時は、
なんだかガッカリしたもんだった。
案の定、
「朝ジャ」で
めっぽう鋭かった体制批判ってやつは
テレビではちょっと
ソフトに表現するようになっていた。
「な~んだ。
久米宏の方が
冗談や笑いをない交ぜにして
上手く社会にメス、
入れてんじゃないか。」
でも、その後、
僕はまたもや
筑紫さんに親近感を持った。
彼は、6月23日の
沖縄慰霊の日には
毎年、必ず沖縄に飛んで
終日、「ニュース23」で
数々ある沖縄の問題を取り上げた。
そんな事をやる
ナイチャーの番組は
他にどこを探しても、なかった。
慰霊の日以外でも
沖縄に何かが起こると
どの番組よりも
深く掘り下げて報道した。
そしてそれは、
沖縄だけじゃなくって、
「マイノリティー」
として片付けられちゃう
様々な国や地方のことを取り上げた。
アフガン、イラク、etc・・・。
僕は、言いたい事があると、
歌にして、結構デカイ声で、歌う。
筑紫さんは、声高じゃ、ない。
語り口はソフトで、
怒りを、むき出しには、しない。
でも、肝心なところ、しっかり伝える。
彼は、体制に対しての
番犬に徹していた。
いつも、どっしりとしていて
静かに、しかし何度となく
諦めず、とうとうと吠え続けた。
筑紫さんと
「ガン仲間」
の、キヨシローはどう思ったろう?
仲間の死に、
わが身を振り返って、
相当に気を落としたのでは?
筑紫さんも
普通の人間と全く同じように
末期症状の痛みに
苦しみぬいて死んでいったんだ
と気づいた時、
涙腺がゆるんだのだった。
筑紫さんだって、
普通の人間よ、って・・・・・。
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